Kunadonic ロリータファッション徒然草

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ロリィタの心意気とは?

 
 

 「下妻物語」で竜ヶ崎桃子が語っていた「ロココの精神」は、長い間ロリィタのひとつの指標として存在していたかと思います。現在は、様々なカテゴリーやスタイルの変遷を経て、その「ロココの精神」も竜ヶ崎桃子の解釈の一つ、という認識に変化したようです。確かに、スチームパンクに当てはめるのも無理がありますね。

 ロリィタの心意気という表現は、「下妻物語」の作者である嶽本野ばら氏が用いた表現でしたでしょうか。流行に迎合せず、個人の強烈な願望でそのスタイルを貫き通す。格好のみならず、その心やポリシー、哲学的な精神論に至る堅固な心情を表現したもの、……かどうかは私にはわかりませんが。竜ヶ崎桃子の「ロココの精神」が目標だったとしても、それを現代の日本に持ってくれば時代錯誤も甚だしく、独り善がりで他人には理解しがたい、そうした社会的には扱いづらい精神論のような、そんな印象を今も持たされます。確かに、理解されにくいですロリィタは。

 若い二人組みの女性に含み笑いされたり、不慣れな店員さんが露骨に避けたり、殿方に何だあれと後ろ指指されたり。ロリィタをしていれば日常的なことなので慣れていますが、世の中捨てる神があれば拾う神もあるものです。相手にされない、理解されないなら、それはもう個人の自由。いちいち気を遣っていては自分の身も心も持ちません。自分がしたい格好を自由にしているのですから、他人の感情もまた自由です。理解してもらえる相手さえ大切にしていければ、それ以上望むべくもないでしょう。冷ややかな視線を浴びようとも、嘲笑の対象であろうとも、自分が大好きな服に誇りを持っていますし、その程度の主観の違いで揺らぐほどの、小さな志ではありませんから。でも…。

 やっぱり孤独はつらいです。どんなに強靭な、鋼の精神を持っていたとしても、独りでロリィタを続けるのはつらすぎます。その現実が、今のお茶会主体のロリィタスタイルの裏返し、なのかも知れません。残念ながら、原宿でロリィタさんを見かけることは少なくなりました。普段からロリィタを着こなすロリィタさんが減ってしまったのは事実でしょう。竜ヶ崎桃子は、あまりにも強すぎたのです。

 それでもロリィタ!!!

 「下妻物語」から10年以上が経ち、スマートフォンの普及で個人主義がさらに進みました。竹下通りは相変わらずですが、ロリィタで闊歩していても、昔ほど注目されることもない気がします。ロリィタ自体少ないのに。仮初のオンリーワン。希薄な個性で埋め尽くされたような原宿には、大同小異のブームともステータスとも言い難い、大量生産のファストファッションに溢れて。…要するに今は、不景気なんですね。ロリィタなんてとんでもない。世の中が、そう語っているようにも聞こえます。

 ロココの精神でもヴィクトリアへの憧れでも何でもいいです。何か得体の知れない過去の遺物でも、それに対する強烈なリスペクトがあって、それを模倣しながら己を磨いていく。海外で持て囃されている武士道だってそうでしょう。今は隠れキリシタンにならなくても、その心を否定されることはありません。法を遵守し他人に迷惑をかけなければ、自由です。茶道・華道・着付けでなく、たまたまロリィタだったというお話。足りないのは、歴史だけです。

 それを愛するものがいる限り、滅びることはないでしょう。ただ、先細っていくのだけは許せません。できるなら、尊敬の対象で、憧れの対象で、あってほしいものです。竜ヶ崎桃子が現実にいない今、カリスマを切望しているのは他ならない、ロリィタ自身だろうと思わずにいられません。そんなカリスマがいたなら、ロリィタの心意気とやらを簡易に代弁してくれるものと思いますが。残念ながら、人気の読者モデルさんでは役不足でしょうか。挙げればキリがないですが、そういうお方々は昔から沢山いたんですけどね。大槻ケンヂさん、嶽本野ばらさん、manaさまetc. ロリィタの心意気を支えてくれるような、懐のとてつもなく大きな存在。すなわち、ロリィタの心意気に今最も欠けているものは、そんな多くの心を支える器そのものなのかも知れません。

※この項は2016年現在の心情です。

 
 

 

Since 2016 UPDATE 22/04/07 00:00
Access Date/Time 24/04/27 03:46

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